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た 
ダイアコニス,パーシ・ウォレン(Persi Warren Diaconis, 1945.1.31-).
アメリカ,ニューヨーク州ニューヨーク市の生まれ.プロのマジシャンでもある.高校でマジッククラブに入り,数学を使ったマジックを考案し,数学への関心からか,13歳のときM.ガードナーに会う.
14歳で家を出て,マジシャンのダイ・ヴァーノンと旅をし,高校を退学(彼の数学の成績がとても良かったので,出る前に多くの奨学金試験を受けたことから,卒業したと認定され,奨学金も獲得).2年後ダイ・ヴァーノンと別れ,シカゴのクラブで金を稼ぐ.そのときPersi Warrenという名前を使っていた(『天書の証明』第6版の第31章にはその名刺の写真がある).
その後ニューヨークに戻り,マジックをしながら,トリックを作ったり教えたり,マジックに関する古書の収集をした.
フェラーの有名な確率論の2巻本『確率論とその応用』を読むためだけの数学を学ぶと決意.その後,ニューヨーク市立大学に入り,1971年に卒業.
ハーバード大学からDennis Arnold Hejhalとモステラーの指導で,「確率における弱平均と強平均と数論(Weak and Strong Averages in Probability and the Theory of Numbers)」によりPh.D.取得(1974).
スタンフォード大学の統計学および数学のマリー・V・サンセリ教授職.
コイン投げやカードのシャッフルなどのような、ランダム性やランダム化を数学問題へ.ベイヤーとの共著論文「Trailing the Dovetail Shuffle to Its Lair」(1992)でカードの分布間の全変動距離を評価.リフルシャッフル置換に対するギルバート–シャノン–Reeds模型を使う.
グレアムとの共著『マジックの数学:素晴らしいマジックを活気づける数学的アイデア(Magical Mathematics: The Mathematical Ideas that Animate Great Magic Tricks)』(2011).
フリードマン=ダイアコニスの法則(David Amiel Freedman).
[天VI.31] トップ
ダイソン(Freeman John Dyson, 1923.12.15-2020.2.28).
イギリス,バークシャー,クローソーンに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州プリンストンに死す.父は音楽家,作曲家.
ケンブリッジ大学に入学し整数論を数学を志す(指導はG.H.ハーディ)も,第2次大戦中のことで,空軍の爆弾部隊に応召(1943),応用数学で勤務.1945年にはケンブリッジから学士を取得し,トリニティ・カレッジのフェローに.1947年アメリカにわたり,コーネル大学でファインマンとベーテに場の量子論を教えることがきっかけで,物理に転向.プリンストンではJ.R.オッペンハイマーのもとで学ぶ.1949年イギリスに戻り,バーミントン大学のリサーチ・フェローに.コーネル大学物理学教授(1951),プリンストン高等研究所・物理学教授(1953),後名誉教授.1957年アメリカ市民権を得る.
有理数による無理数の近似.量子電磁力学における,ファインマンの方法とシュウィンガー(独立に朝永振一郎)の方法を統一した定式化をし,くりこみの計算(1950年頃).熱力学的極限の理論で,自発磁化を持ち相転移を起こしている例(1969).エントロピー論におけるダイソンの予想.宇宙物理学,特にオリオン計画(アポロ計画後の宇宙計画)に参加.
また,宇宙空間への植民を提唱し,科学的世界観に関する啓蒙書も多い.ダイソン殻.
文献
- 『宇宙をかき乱すべきか』(鎮目恭夫訳)ダイヤモンド社(1982) Disturbing the Universe: A Life in Science(1979)
- Weapons and Hope(1984)
- Origins of Life(1985)
- 『多様化世界-生命と技術と政治』(鎮目恭夫訳)みすず書房(1990) Infinite in all Directions(1988)
- 『科学の未来を語る』(はやし・はじめ+はやし・まさる訳)三田出版会(1998.3.10) Imagined Worlds(1997)
[代17, コ,フ2], [50.17,25,43] トップ
ダーウィン(Charles Robert Darwin, 1809.2.12--1882.4.19.).
イギリス,シュルーズベリ,マウントハウスに生まれ,ケント州,ダウンハウスに死す.
博物学者.進化論,自然淘汰説を提唱.『ビーグル号航海記(The Voyage of the Beagle
)』 (1839), 『種の起源(On the Origin of Species)』(1859), 『人間の由来と性選択(The Descent of Man, and Selection in Relation to Sex)』(1871).
優生学のフランシス・ゴールトンは従弟.
墓はウェストミンスター寺院にあり,ジョン・ハーシェルやI.ニュートンの墓の近くだという.
[モト],[伝6] トップ
ダヴェンポート(Harold Davenport, 1907.10.30-1969.10.30).
イギリス,ランカシャー,アクリントン,ハンコート村に生まれ,ケンブリッジに死す.
アクリントンのグラマースクール卒,マンチェスター大学卒(1927).ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学ぶ.
ケンブリッジ大学からリトルウッドの指導で,平方剰余の分布に関する論文で理学博士(1937).
マンチェスター大学(1937),ウェイルズ大学,ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジ,ケンブリッジ大学ラウス・ボール教授職(1958-69).
ガウス和に対するハッセ・ダヴェンポート関係式,ダヴェンポート・シンゼル列(Davenport-Schinzel sequence).
『高等算術:整数論入門(The Higher Arithmetic: An Introduction to the Theory of Numbers)』(1952),
『ディオファントス方程式の解析的方法とディオファントス不等式(Analytic methods for Diophantine equations and Diophantine inequalities)』(1962),
『乗法的整数論(Multiplicative number theory)』(1967)など.
弟子にA.ベイカー,コンウェイ,H.モンゴメリなど.[珠文] トップ
ダウカー,ヒュー(Clifford Hugh Dowker, 1912.3.2--1982.10.14).
カナダ,西オンタリオ州,パークヒルに生まれ,イギリス,ロンドンに死す.
1938年にレフシェッツの指導で,プリンストン大学から「非コンパクト空間における写像定理(Mapping Theorems in Non-Compact Spaces)」によりPh.D.取得.トポロジスト.
P.S.アレクサンドロフ,R.H.フォックス,W.フルヴィッツ,スティーンロッドから影響.
西オンタリオ大学講師(1938-39),プリンストン高等研究所でフォン・ノイマンの助手(1939-40).その後3年間ジョンズ・ホプキンス大学講師.MIT(1944-),戦時中は空軍で働き,リビアやエジプトに.ロンドンのバーベック・カレッジの上級講師をした後,マンチェスター大学教授.バーベック・カレッジ教授(1962-1970).
著書にLectures on sheaf theory(1956).
[伝8] トップ
タウスキー・トッド,オルガ(Olga Taussky-Todd, 1906.8.30--1995.10.7.).
オーストリア・ハンガリー帝国,オルミュッツ(Olmutz)
(現在チェコ共和国,オロモウツ(Olomouc)
)に生まれ,アメリカ,カリフォルニア州,パサデナに死す.
1930年にウィーン大学から,フルトヴェングラーの指導で「主イデアル定理の強化について(\"Uber eine Versch\"arfung des Hauptidealsatzes)」によりPh.D.取得.ウィーン大学では他にハーン,ヴィルティンガー
,メンガー,Eduard Helly(1884-1943)に学ぶ.
ハーンの推薦でゲッティンゲンのR.クーラントを助けてヒルベルトの全集第1巻の編集.E.アルティンの類体論の講義(1932)の編集そし,エミー・ネーターの類体論やクーラントの微分方程式の講義の助手も務める.
1932-33年ウィーン大学でチューターをしたあと,1年間エミー・ネーターのいたブリン・モーで研究職をした後ロンドンに移り,トッドと出逢い,1938年に結婚する.戦争中,夫婦でアチラコチラに移動.1947年にアメリカに移りあちこち.プリンストンでフォン・ノイマンの計算機のプロジェクトでも働く.1957年に夫婦でカリフォルニア工科大学教授(-1977).引退後も精力的に研究を続ける.
[伝8] トップ
タウバー(Alfred Tauber, 1866.11.5--1942).
スロヴァキア,プレスブルク(現在のブラティスラヴァ)に生まれ,ドイツ,テレジエンシュタット(現在はチェコ共和国,テレジン)に死す.ナチの収容所での死亡のため,命日は特定できない.
ウィーン大学からGustav Ritter von EscherichとEmil Weyrに指導で「群論の一定理について(Ueber einige S\"atze der Gruppentheorie)」により哲学博士号取得(1888).
ウィーン大学私講師(1891).1901年からウィーン工科大学の名誉講師.職としてはウィーンのフェニックス生命保険の数学部長.1908年にウィーン大学助講師
関数論,ポテンシャル論,微分方程式
タウバー型定理は,アーベルの定理の逆定理を証明した彼を記念して,G.H.ハーディとリトルウッドが命名した.
[伝10] トップ
タオ,テレンス(Terence Tao,陶哲軒, 1975.7.17-).
オーストラリア,アデレードの生まれ.
実解析、調和解析、微分方程式、組合せ論、整数論、表現論.
16歳のとき,アデレードのフリンダース大学から,Garth Gaudryの指導で,学士号と修士号取得(1991).
21歳のとき,プリンストン大学から,Elias Menachem Steinの指導で,「調和解析における3つの正則性の結果(Three Regularity Results in Harmonic Analysis)」によりPh.D.取得(1996).
カリフォルニア大学ロサンゼルス校に勤務(1996-),24歳で教授(1999-).
ベン・グリーンとともに,素数の集合の中に任意の長さの等差数列があることを証明(2004,グリ-ン--タオの定理).
掛谷予想(タオのブログ)への貢献.
KdV方程式が大域解を持つこと.表現論とシンプレクティック幾何に組み合わせ論的手法を持ち込み,エルミート計量に関するHorn予想を解決(Allen Knutsonとともに).
弱いゴールドバッハ予想(すべての3以上の奇数は高々5個の素数の和で表せる)を証明(2012).
ポール・エルデシュの Discrepancy problem の証明(2016).
ボッチャー賞受賞(2002),クレイ賞受賞(2003),フィールズ賞受賞(2006)など.
[天VI.11,35] トップ
高木貞治(Takagi Teiji, 1875(明治8).4.21-1960(昭和35).2.28).
岐阜県大野郡数屋村(現在は、本巣郡糸貫町数屋)に生まれ、東京に死す。
東大では藤沢,留学先のドイツではヒルベルトの弟子.『文明開化の数学と物理』に略伝がある.
東京大学教授。高木類体論が日本数学の唯一の誇りだった時代があった。どこでも微分可能でない連続関数の例(高木関数).
岩波書店から『解析概論』『数の概念』『数学小景』『近世数学史談』(文庫)、共立出版から『初等整数論講義』『代数学講義』『数学雑談』など著書多数。 [解III.9、文], [ト文],[文3],[伝7], [ふ3], [作付A] トップ
ダガーニュ(Philbert Maurice d'Ocagne, 1862.3.25-1938.9.23). フランス,パリに生まれ,ル・アーブルに死す.
エコール・ポリテクニクで学び(1880-1885),卒業後エンジニアとして,各地で働きながら,数学の論文をいろんな雑誌に投稿.公的機関(nivellement général de la Franceやdes services des cartes et plans et des instruments de précision au ministère des Travaux publicsなど)に勤める(1891-1893).国立土木学校教授(1893-1901),エコール・ポリテクニークの幾何学教授(1912-1920).
ノモグラム(計算図表の一種)の発明.著書多数.
[フI.3.2] トップ
高野長英(Takano Choei, 文化元年5月5日(1804.6.12)-嘉永3年10月30日(1850.12.3)).
陸奥国水沢に生まれ,江戸に死す.
通称は悦三郎,諱は譲ゆずる,号は瑞皐ずいこう.
父は水沢伊達氏家臣・後藤実慶,養父は叔父・高野玄斎.玄斎は江戸で杉田玄白に蘭法医術を学んだことから家には蘭書が多く,若くから関心を持つ.
文政2年(1820),江戸に出て杉田伯元(玄白の女婿)の天真楼の塾に入門,文政5年(1823),天真楼塾を辞める.
吉田長淑に師事,吉田に認められ,「長」をもらって長英と名乗る.
文政8年(1825),長崎へ行き,シーボルトの鳴滝塾に入門.オランダ語の上達が目覚しく,オランダ語による論文も書く.
優秀な語学力を示す有名なエピソードがある.鳴滝塾出身者の宴会で、オランダ語以外の言葉を使うと罰金をとるという決まりが設けられた.多くの者は酒が入るうちついつい日本語をしゃべって罰金を取られていたが、長英のみオランダ語を使い続けていた.それを妬んだ伊東玄朴が,長英を階段から突き落とし長英は「GEVAARLIKI!」(オランダ語で「危ない!」)と叫んだ。というのがある。長英自身才能を鼻にかけて増長する傾向があり、仲間内の評判も悪かったが、当時最高の実力の蘭学者として周囲は認めざるを得なかった。
文政11年(1828)シーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子も捕らえられて厳しい詮議を受けたが,長英はこのときは巧みに逃れている。まもなく豊後国日田(現在の大分県日田市)の広瀬淡窓に弟子入りしたという(異説もある)。この間、義父玄斎が亡くなっており、長英は故郷から盛んに帰郷を求められるが、逡巡したもののついに拒絶し,家督を捨て,武士の身分を失う.
文政13年5月京都に着き,滞在中の7月2日(1830.8.19)京都大地震に遭遇.
文政13年10月末(1830年),江戸に出て,麹町貝坂で町医者と蘭学塾を開き,翌天保2年(1831)に内田五観がオランダ語を学ぶため高野長英に入門している.
天保3年中に,高野は小関三英の紹介で渡辺崋山に会う. 能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として小関三英や鈴木春山とともに蘭学書の翻訳に当たる.天保3年(1832)、紀州藩儒官遠藤勝助らによって天保の大飢饉の対策会として作られた学問サークルである尚歯会に入り、崋山らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果である.
天保7年(1836)『救荒二物考』刊.上州の門人から聞いた,早生そばと馬鈴薯の栽培法や調理法を高野長英が口述,内田五観が文章化,跋文を書き,渡辺崋山が挿絵.
天保8年(1837年)、異国船打払令に基づいてアメリカ船籍の商船モリソン号が打ち払われるモリソン号事件が起きた。この際長英は「無茶なことだ、やめておけ」と述べており、崋山らとともに幕府の対応を批判している。長英はそうした意見をまとめた『戊戌夢物語』を著し、内輪で回覧に供した(ただし、長英の想像を超えてこの本は多くの学者の間で出回る).
天保10年(1839年)、蛮社の獄が勃発。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢の判決が下って伝馬町牢屋敷に収監.牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた.これらの行動と親分肌の気性から牢名主として祭り上げられる.
弘化元年(1844年)6月30日、牢屋敷の火災に乗じて脱獄。この火災は、長英が牢で働いていた非人栄蔵をそそのかして放火させたとの説が有力.
この年,内田五観の依頼により,天文学書『遜謨児ソンムル四星編』『星学略記』を翻訳.
その後の経路は詳しくは不明ながらも(江戸では人相書きが出回っていたためと言われている)薬品で顔を変えて逃亡生活を送り、一時江戸に入って鈴木春山に匿われて兵学書の翻訳を行うも春山が急死.
その後宇和島に行き,鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の案内で伊予宇和島藩主伊達宗城に庇護され、宗城の下で兵法書など蘭学書の翻訳や、宇和島藩の兵備の洋式化に従事した。主な半翻訳本に砲家必読11冊がある。このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は当時としては最高の技術を結集したもの.宇和島で,五岳堂という塾を開く.その場所は和島城の北東400m、市内を流れる辰野川のほとりにあり,後藤新平揮毫の石碑「高野長英居住地」が建っている.実は,管理者はこの碑を探したことがあり,町家の小道の軒下にそっと立つ碑に,何とも言えぬ思いを感じたものである.
しかし、幕府に知られ,宇和島から出て卯之町(現在の西予市宇和町卯之町)宅に潜伏,さらに,嘉永2年(1849)6月の中頃卯之町を旅立ち,6月27日の夕刻、海路大阪に着き,翌日,二宮敬作,斎藤丈蔵あての手紙を大阪宇和島藩邸に託している.7月3日の夕刻には名古屋に着き、門人の尾張藩医山崎玄庵のところに身を隠した.
8月頃に江戸に戻ったらしく,宇和島藩江戸藩邸の官便を使って斎藤,大野兄弟にあてた8月20日付けの手紙が残っている.
江戸に戻ったとき,五観の甥の信四郎が長英潜伏の世話をし,その家で捕吏に踏み込まれた長英が自殺したため、信四郎は八丈島に流罪となり五観の実家は断絶. また,一時,下総国香取郡萬歳村に内田五観の門人花香恭法ハナカキョウホウを頼ったことがある.嘉永3年(1850)3月、恭法の留守中に置き手紙を残し、マーリンの蘭仏辞典上下2冊とホンブランドの三兵戦術書蘭訳写本を質に5両を借りてこの地を後にした。
江戸では沢三伯の偽名を使って町医者を開業した。医者になれば人と対面する機会も多く,見破られないように硝酸で顔を焼いて人相を変えていたとされているのが,この時期になってのことか,もっと以前のことか,それともそういう事実はなかったのか,はっきりしたことは分かっていない.
天保6年(1835)「西洋学師ノ説」(J.A. Kulmus, Anatomische Tabellen, 1722の訳)の中で
ヒタゴラス(按ズルニ是レ西洋天学家ノ鼻祖ナリ)ハ大厄勒矢亜(ゲリシア)ト名クル処ニ生レ、 …… 厄多(エジプト)人ヨリ数学ヲ受ケ、以テ比較符合ノ説ヲ設ケ、万物全備完成ノ理ヲ解キ、……
と述べている.
蘭学者としての弟子は多数.蘭方医としての弟子に,佐藤泰然(1804--72),柳田鼎蔵,福田宗禎,高橋景作,高野隆仙など.
『医原枢要』, 『戊戌夢物語』(天保9年(1838)),『和寿礼加多美わすれがたみ(別名、鳥の鳴音)』(天保10年),獄中手記『蛮社遭厄小記 』(天保12年春),『三兵答古知機タクチキ』(嘉永3年(1850)),『泰西地震説』など. [文2] トップ
高橋大介(Daisuke Takahashi). 東大の情報基盤センターの助手から,筑波大学システム情報系計算科学研究センター教授.
1997年以来,金田康正に協力して,「πの計算」の世界記録を何度も更新する. トップ
高橋景保(Takahashi Kageyasu, 天明5年(1785)- 文政12年2月16日(1829.3.20)).
大阪に生まれ,江戸に死す.
通称,作左衛門.高橋至時の長男.文化元年(1804)に父の跡を継いで江戸幕府天文方となり、天体観測・測量、天文関連書籍の翻訳などに従事.
文化7年(1810)「新訂万国全図」を制作(銅版画制作は亜欧堂田善)。
一方,伊能忠敬の全国測量事業を監督し、全面的に援助する。忠敬の没後、彼の実測をもとに『大日本沿海輿地全図』を完成.
文化8年(1811)蛮書和解御用の主管となり、「厚生新編」を訳出する業務を始める.文化11年(1814)に書物奉行兼天文方筆頭に就任したが、文政11年(1828)のシーボルト事件に関与して投獄され、翌文政12年(1829)2月16日に獄死.
[文2] トップ
高橋豊夫(Takahashi Toyoo, 文久元年(1861)-1944(昭和19)).
明治17年(1884),東京大学数学科の唯一の第1回卒業生.1884年6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会.
明治20年(1887)仙台に開設された第二高等中学校へ、開設と同時に赴任(-1901).第二高等中学校は明治27年(1894)第二高等学校と改称された。
1901年、広島高等師範学校へ転勤。
『幾何学初歩 上中下』(1890-91)を編集(菊池大麓校閲),『修訂平面幾何學敎科書』,『修訂立体幾何學敎科書』,『修訂平面三角法敎科書』(學海指針社).
[文プ] トップ
高橋至時(Takahashi Yoshitoki, 明和元年11月30日(1764.12.22)-享和4年1月5日(1804.2.15)).
大阪に生まれ,江戸に死す.長男は高橋景保,次男は渋川景佑.
大阪定番同心の子として生まれ、安永7年(1778)15歳の時、父の後をついで大阪定番同心.天明6年(1786)ごろ、松岡能一に算学を学び,暦学を学ぶため、天明7年(1787)麻田剛立に師事.
当時の日本の暦である宝暦暦(宝暦5年1月1日(1755.2.11)に貞享暦から改暦)が,宝暦13年9月1日(グレゴリオ暦1763年10月7日)の日食を外して,麻田を始め民間の多くの天文家が日食を予測していたこともあり,寛政7年(1795)天文学者として名が高くなっていたは至時は間重富とともに、幕府から改暦を行うための出府を命じられた。
至時は同年4月に江戸へ赴任,4月28日に測量御用手伝、11月14日に幕府天文方となる.寛政9年(1797)10月、『暦法新書』8巻が提出され、寛政暦と名付けられた新暦は、寛政10年(1798)より施行.
参考としたのは授時暦や貞享暦などの日本・中国の暦法,『暦算全書』,『天経或問』,『暦象考成上下編』,『暦象考成後編』.この最後のもので初めてケプラーの楕円軌道の理論を知った.その後享和3年(1803)若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書(オランダ語のもの)を渡され,解読に努めるが,彼自身は蘭語を解さなかったため困難,その研究は死後,息子たちに引き継がれ,文政9年(1826)『新巧暦書』としてまとめられ,それをもとにして天保暦が作成される.
寛政7年(1795)江戸に出てきた頃,50歳の伊能忠敬を弟子にし,暦学や天文学を教える.地球が球でなく,南北が少し潰れた形であることを知った至時は子午線の長さを知りたくなり,江戸と蝦夷くらいの距離での値をと考えたことを実測することを伊能に託す.これがきっかけで伊能の日本全図のための測量が始まる.
『刪補授時暦交食法』(寛政元年),『寛政暦法』(全7冊、寛政9年、共著),
『増修消長法』(寛政10年),『授時暦日食法論解』(享和2年),
『ラランデ暦書管見』(全11冊、現存8冊、享和3年)など.
[文2] トップ
高田早苗(Takata Sanae, 安政7年3月14日(1860.4.4)- 昭和13年(1938.12.3)).
江戸,深川に生まれ,東京に死す.号は半峰.
、
浅草本願寺裏の英語塾で藤沢と同期.神田の共立学校や官立の東京英語学校(のちの一高)などで英語を学び、大学予備門を経て、明治15年東京大学文学部哲学政治学及理財学科卒業.
大隈重信と東京専門学校(早稲田大学の前身)を作って評議員,講師となり,1902年に早稲田大学と改称した際,初代学長(初代総長は大隈)になる.彼と天野為之,市島謙吉,坪内逍遥を早稲田の学祖四尊ともいう.
「早稲田騒動」により早稲田を離れるが,1918年に早稲田大学が大学令に基づく正式な大学に昇格し,1922年に大隈重信が没すると復帰し総長になる(1923.5-1931.6).
日本語での講義を可能にするため早稲田叢書を企画(明治29年から刊行を始める),自身,ウィルソン『政治汎論』(The State),スコットオ『英国国会史』,サージェント『英国外交政略』,ハルゲス『政治学と比較憲法』,ダイシー『英国憲法論』,グューン『英国国民史』,アースキン・メー『欧州民政史』を翻訳.政治学,貨幣論・租税論等の経済学関係以外にも,『美辞学』(修辞学),『教育時言』,『半峰昔ばなし』などの著書もある.
政治家としては大隈に協力し,立憲改進党の結成,衆議院議員(明治23年(1890)の第1回衆議院議員総選挙に当選以来当選6回).「改進党の張子房」と呼ばれることがある.
1897年第2次松方内閣(大隈と連立した松隈内閣)で外務省通商局長,1898年第1次大隈内閣(隈板内閣)で文部省参事官、高等学務局長、参与官兼専門学務局長.1903年12月の議会解散以後は政界から暫く離れたが,貴族院議員に勅撰され(1915.5.19),
第2次大隈内閣の内閣改造で文部大臣(1915.8-1916).
外務省通商局長になる前,読売新聞の株主を兼ねた主筆(1887.10.1-1890),1897年に退社.
[文3] トップ
ダカール,フランス(France Dacar, 1947-).
スロヴェニア,リュブリャナ大学から,Bojan Moharの指導で「条件の終末ネットワーク(Konèna omrežja pogojev)」によりPh.D.取得(1995). リュブリャナのJosef Stefan研究所.
数論,組み合わせ論,幾何学,トポロジー,代数学. [天VI.序,20,21] トップ
タケット,アンドレ(André Tacquet, 1612.6.23-1660.12.22). ラテン名Andrea Tacquet
ブラバント,アントワープ(現在ベルギー領)に生まれ,同地に死す.
ユークリッド幾何とアリストテレス哲学にこだわり,不可分の方法を拒否.
1629年にイエズス会に入る.1631-1635年間に,ルーヴァンで数学,物理,論理を学ぶ.国際的に名声を博した数学者となり,その著書は,英語やイタリヤ語にも翻訳される.有名な著書はCylindricorum et annularium(円柱と環) (1651)で,同時代人のa href="jinmeih1.htm#Pascal">パスカルにも影響を与える.著書の中で,動点が生成する曲線,面積や体積の理論を展開し,不可分法を否定.カヴァリエーリの方法を擁護している.
Elementa geometriae(1654)はユークリッドとアルキメデスに基づき,100年以上も定番の教科書.著書のAstronomiaとCylindricorum et annulariumについて,オルデンブルグはone of the best books ever written in mathematicsと評している.
天文学,球面三角法,実用幾何,築城術.
[幾3] トップ
建部賢弘(Takebe Katahiro, 寛文4年(1664)6月-元文4年7月20日(1739.8.24)).
幼名は源右衛門,号は不休. 父は徳川家光右筆建部直恒.三男.兄に建部賢明
延宝4年(1676),兄の賢明とともに関孝和に入門.
元禄3年(1690),甲府宰相綱豊の臣,北條源五衛門の養子となり,北條源之進を名乗る.
元禄16年(1703),建部に復し,改めて綱豊に新規召抱えられ,御小納戸に属す.切米百俵5人扶持.建部彦次郎と名乗る.
宝永元年(1704)5月,綱豊が世子となるに伴い,江戸城西之丸に入り,西城御納戸組頭番となり,宝永6年(1709)西城御小納戸番となる.
宝永4年(1707)幕府大納戸番になるという記述と矛盾するのかどうか分からない.以降綱吉(1680--1709),家宣(1709--1712),家継(1713--1716),吉宗(1716--1745)に仕える.
家宣,家継には小納戸役として仕える.
政権が吉宗に移った時,前政権の多く(新井白石など)は免職となったが,科学アタッシェ的な役割が期待されたのであろう.建部は『徳川実記』という幕府の公式記録文書に十箇所も登場している.
享保4年(1719),将軍徳川吉宗から「日本総図」を作ることを命じられ,享保8年(1723)完成.
享保6年(1721)二の丸御留守居(若年寄支配,役高500石)になり,吉宗から西洋暦法調査を命じられる.暦算研究のため中根元圭召し出しを進言.
享保11年(1726)吉宗から『暦算全書』の訳述を命じられ,中根元圭に委託し,中根は享保13年(1728)に訓点を完成.享保18年(1733)に『暦算全書』に序文をつけて,吉宗に奉呈.
享保15年5月15日(1730)御留守居番(老中支配,役高1000石),
享保17年(1732)広敷御用人となり,享保18年(1733)2月,願いにより御役御免,12月隠居.
関孝和の業績の解説書を複数著作.例えば、関は沢口一之の『古今算法記』(1671(寛文11)年刊)の遺題を自らの創始した点鼠術を駆使し て解決し、 結果を『発微算法』(1674(延宝2))として出版しているが,本書は著しく省略が多く理解が困難であり,正当性に疑いの声も上がっていた.建部は『発微算法演段諺解』(貞享2(1685))で変数消去の過程を丁寧に解説し、その不備を補った。 また、関孝和の業績を,兄の賢明とまとめた『大成算経』20巻(1695, 宝永7年(1710))は当時の和算を集大成した労作.その間の事情が,建部賢明『建部氏伝記』(1715) の自伝「建部隼之助賢明伝」に
凡倭漢ノ數學、其ノ書最モ多シトイヘトモ、未タ釋鎖ノ奥妙ヲ盡ササル事ヲ歎キ、三士 (関孝和、建部賢明、建部賢弘) 相議シテ、天和三 (1683) 年ノ夏ヨリ、賢弘其首領ト成テ、各新ニ考ヘ得ル所ノ妙旨悉ク著シ、就テ古今ノ遺法ヲ盡テ、元禄ノ中年 (1690年代) ニ至テ編集ス。總十二巻、算法大成ト號シテ粗是ヲ書寫セシニ、事務ノ繁キ吏ト成サレ、自ラ其微ヲ窮ル事ヲ得ス.
孝和モ又老年ノ上,爾歳病患ニ遭ラレテ考検熟考スル事能ハス.是ニ於テ同十四 (1701)年ノ冬ヨリ,賢明官吏ノ暇ニ躬ラ其思ヲ精スル事一十年,廣ク考ヘ詳ニ註シテ二十巻ト作シ,更ニ大成算経ト號テ,手親ラ草書シ畢レリ.
とある.また関孝和自身の意図は,賢弘の著『研幾算法』(天和3(1683))に寄せた関の跋に
これを閲けみす るに,ことごとく一理貫通の妙旨を発揮す.まことに難きを解くのこれ標準なり.凡そ数は至直の道なり.
毫釐ごうりも謬あやまるときには、
差たがふ こと,千里をもってす.
頃年邪説をなして世を惑はし、民を誣しひ
るの徒、はなはだ夥おびただし.学者,まさに詳察すべきのみ.
とあり,『発微算法演段諺解』に寄せた関の跋に
算学は何のため為ぞや.難題,易題,尽ことごとく明あかさ ざるということ無なき術を学ぶなり.理を説
くこと高尚なりといへども、術を解くこと迂濶うかつ
なるのは,乃すなは ち算学の異端なり.
とあることから察せられる.
独自の業績としては,円周率に関連した研究が重要で,後の円理の発展の基礎になる.古来からある正多角形で円を近似する方法に「累遍増約術」(リチャードソン補外)を適用して, 円周率を41桁まで正しく求めた.関孝和の計算にくらべて遥かに少ない計算で精度を大いに改善.世界的に数値的加速法の最初期の例である.なお、Lewis Fry Richardson(1881.10.11-1953.9.30)による同手法の提案は1910年ごろのこと.
兄の賢明の発見した零約術(連分数展開)を用いて,円周率のきわめて精度のよい近似分数を見出す. また,微小な円弧の長さをその矢の長さで数値的に冪級数展開した. この際、数値計算でえた係数を零約術で処理することで、正しい係数にたどり着いた(『綴術算経』(享保7年(1722)).これは、π2の無限級数展開に相当するが, 円弧の長さを計算する方法という意味の方が強い. 後にこの数値的結果を不完全ながら正当化した(同じ結果をオイラーが得たのはその15年後). これは,和算における最初のベキ級数展開であり,後の関流での円理の発展の基礎となる.
なお、同じ1722年、京阪の和算家鎌田俊清(1678-1747)が『宅間流円理』でsin(x),arcsin(x) のべき級数展開を発表しているが、両者の影響関係は不明.
その他、指数1/2の二項級数を示したり,ディオファントスの不定方程式の近似解法を示したりしている.
ほかの著書に,『算学啓蒙諺解大成』元禄3年(1690),『不休綴術』『弧背術』『辰刻愚考』(享保7年(1722)),『国絵図』『歳周考』(1725),『歴算全書』(梅文鼎著)翻訳(1726),『累約術』(1728;ディオファントス方程式の近似解法),『算暦雑考』など.
弟子は3人のみ.中根元圭,池部清真,小池友賢(水戸藩士,藩命で建部と渋川春海の弟子になっただけ)
[文2], [辞] トップ
ダストン,ロレーヌ(Lorraine Daston, 1951.6.9--).アメリカ,ミシガン州イーストランシングの生まれ.
科学史家.ベルリンの科学史に対するマックス・プランク研究所執行役員.シカゴ大学Committee on Social Thought客員教授.年に9か月はベルリンに,3か月はシカゴに.
著書にBefore the Two Cultures: Big Science and Big Humanities in the Nineteenth Century (2015)ほか.
[率0] トップ
ダーショウイッツ,ナホム(Nachum Dershowitz)
イスラエル,バーイラン大学のコンピュータ科学・応用数学科をsumma cum laudeで卒業(1974).ワイツマン科学研究所からZohar Mannaの指導で「プログラムの進化(The Evolution of Programs)」によりPh.D.取得(1979).
イリノイ大学アーバナ・シャンペイン校コンピュータ科学部で勤務(1978-1998),テルアビブ大学教授(1998-).
ダーショウィッツ--マンナ順序を使って項書き換え系の終了を証明. [天VI.33] トップ
ダーゼ(Johann Martin Zacharias Dase, 1824.6.23--1861.9.11)
ドイツ,ハンブルグの生まれ.幼時から暗算の才能を発揮.1839年からドイツ国内で非凡な計算能力を公衆の前で演じるようになる.例えば,20桁の数同士の掛け算を6分でしたと言う.
1840年にウィーンにいたとき,計算能力を科学的な目的に使うように要請され,ガウスらと計画を練るようになる.
1844年に,ラザフォードのπの208桁の計算を検証し,153桁目に誤りを発見.自身は205桁まで計算.200桁までが正しい値で,その結果はクレレ誌に掲載される.使用した公式はL.K.シュルツの公式を使った.
自然対数の7桁の数表の計算を完成し(1850年,ウィーン),700万から1000万までのすべての数の約数の表を作る.900万までの素数表を作る
ガウスがハンブルグ科学アカデミーに,ガウスの数学的目的のために,ダーゼをフルタイムで雇うように求め,アカデミーはそうすることを決めたのだが,ダーゼはその仕事できるほど生きることができなかった.
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タッカー(Albert William Tucker, 1905.11.28--1995.1.25).
カナダ,オンタリオ州オシャワに生まれ,アメリカ,ニュージャージー州ハイツタウンに死す.
プリンストンでレフシェッツのもとでPh.D(1932).1933年から1970年までプリンストン大学に勤める.最初は抽象的なトポロジー.有名なのは非線型計画法(カルーシュ(William Karush)・クーン・タッカー条件は基本結果)とゲーム理論での業績.「囚人のジレンマ」を考案.教育にも感心が深く,MAAの会長(1961-62)など.Mathematical Programing Societyにはタッカー賞が制定されている.学生も多く,中に1950年にPh.Dを出したナッシュはノーベル経済学賞受賞(1994).
[伝8,10], [率25] トップ
ダッドリー(Underwood Dudley, 1937.1.6-). アメリカ,ニューヨーク市の生まれ.
カーネギー工科大学に学び,1965年にミシガン大学からルヴェクの指導で,「振動関数の1を法とする分布(The distribution modulo 1 of oscillating functions)によりPh.D.取得.オハイオ州立大学での2年間の後,インディアナ州グリーンキャッスルにあるデポー大学 (DePauw University) で37年教え,2004年に退職.
整数論(Elementary Number Theory, W.H. Freeman 1978)と微積分(Readings for Calculus ,MAA 1993)に関する教科書以外に,The Trisectors, MAA(1996),Mathematical Cranks, MAA(1992), Numerology: Or, What Pythagoras Wrought, MAA(1997)などの啓蒙書がある.
[幾8,文] トップ
田中不二麿(Tanaka Fujimaro, 1845.7.16(弘化2年6月12日)-1902.2.1(明治42)).
尾張藩名古屋城下に尾張藩士の子として生まれ、寅三郎と言う.
藩校明倫堂で和漢古典を学ぶうちに勤皇思想に心酔,尊攘派の「金鉄組」に属す.
成績優秀につき藩参与に.青松葉事件以後、実権を握る徳川慶勝の右腕となって藩論の統一に尽力.島崎藤村『夜明け前』にも登場.
1868年(慶応4年)正月、官軍に徴士、翌年「大学御用掛」拝命、教育行政に携わる.
1871年(明治4年)10月、文部大丞になる。岩倉遣欧使節に文部理事官として随行、アメリカ・アマースト大学に留学中の新島襄を通訳兼助手とし、欧米の学校教育を見聞.帰国後、欧米教育制度を紹介した「理事功程」15巻を著す。
1874年(明治7年)文部大輔となる。外務卿陸奥宗光とともに、観測のため来日したメキシコ天文観測隊を歓待し、近代日墨国交の端緒を開く。
1879年(明治12年)「教育令」を建白、学制が廃され同令が施行される。
未就学児の増加ならびにいわゆる「学力低下」を招いたとして政府内で批判が強まり翌1880年(明治13年)司法卿に配置換え.
以後教育から遠ざかり、参事院議官、駐イタリア公使、駐フランス公使、枢密顧問官をへて1891年(明治24年)、「藩閥色を薄めるために薩長出身者以外の閣僚を」との伊藤博文・山縣有朋らの要請を受け第1次松方内閣の司法大臣.後、位階正二位に任ぜられ爵位(子爵)を授与される。
[文プ] トップ
田中由真(Tanaka Yoshizane, 慶安4年(1651)-享保4年10月21日(1719.12.2)). 京都に生まれ,京都に死す.
算学を橋本吉隆に学ぶ.関孝和と同時代で研究対象には重なるものも多いが,彼とは独立に研究.終結式を導くのに行列式を用いたり(連立一次方程式の消去理論),連分数展開に類似の方法を述べている.
『算法明解』(1679,沢口一之の『古今算法記』の遺題に解答,関の『発微算法』(1674)と内容が重複しているが方法は異なる),『洛書亀鑑』(1683,魔方陣の解説),『算学紛解』(1690?),『雑集求笑算法』(元禄11年(1698)頃),小町算など数学遊戯).
弟子に中根元圭,佐治一平など. [ふ5] トップ
田中舘愛橘(Tanakadate Aikitsu, 安政3年9月18日(1856.10.16) - 1952(昭和27年)5.21). 陸奥国二戸郡福岡(現在の岩手県二戸市)の生まれ.
南部藩士の家にうまれ,藩校に学ぶ.のち,一家は東京へ移住し,慶應義塾、官立東京開成学校予科に学ぶ.
1878年9月,東京大学理学部数学物理学星学科に入学(同期は物理学科の藤沢,田中正平のみ.もうひとりの隈本有尚は星学科).
在学中は菊池大麓、山川健次郎に師事し、ジェームス・アルフレッド・ユーイングに電磁気学、T・メンデンホールに地球物理学を学び、富士山頂での重力測定を手伝う。エジソンのフォノグラフが発表されるとその試作を行った.
第2期卒業生であり,同期は数学の北条時敬,熊沢鏡之助(2名のみ),物理関係の北尾次郎,長岡半太郎など.
1882年(明治15年)に卒業と同時に準助教授に就任,1883年(明治16年)に助教授となり,電磁方位計を考案.
1884年6月東京数学会社が東京数学物理学会に改名した時に入会.
1888(明治21)年、イギリス・グラスゴー大学のケルヴィン卿のもとに公費留学した。ベルリン大学での受講を経て、1891(明治24)年にアメリカ経由で帰国、東京帝国大学理科大学教授に就任.
1891(明治24)年10月に発生した濃尾地震で震源地の岐阜・根尾谷の断層を発見・調査.東京帝国大学航空研究所の設立に尽力.
1907(明治40)年にメートル条約によって設立された理事機関・国際度量衡委員会の委員に.ローマ字論者でもあり,日本式ローマ字を考案.後,1937年に、これを基礎として、改変を加えた訓令式ローマ字が公認される.
1916(大正5)年還暦祝いの会合で退職を希望し,60歳定年制ができるきっかけに.
弟子に田丸卓郎,木村栄など.
[文プ] トップ
ダニッツ(Jack David Dunitz, 1923.3.29-) スコットランド,グラスゴーの生まれ.化学者で結晶学者.
初等・中等教育はグラスゴーで受け,グラスゴー大学で理学士とPh.D.取得(1947).オックスフォード大学(1946-1948, 1951-1953), カルフォルニア工科大学(1948-1951, 1953-1954),アメリカ国立衛生研究所(1954-1955),ロンドンのRoyal Institution(1956-1957)で研究職.チューリッヒ工科大学(ETH Zurich)で結晶化学の教授(1957-1990)
シクロブタン,シクロアルカン,水素結合でビュルギ・ダニッツ角.
ダニッツの規則「ほとんどすべての科学出版物は最初の文書を切り出すことによって改善することができる」
[幾9,10,文] トップ
谷山豊(Yutaka Taniyama, 1927.11.12-1958.11.17)
埼玉県騎西町に生まれ,東京に死す。
東大出身。東大助教授のとき自殺。整数論の日光シンポジウムでアンドレ・ヴェイユに会ったことが彼の数学に決定的な影響を与えた。アーベル多様体の代数幾何の高次元化.谷山・志村予想はフェルマの最終定理の証明のために大きな役割を果たした. [名3] トップ
タネル(Jerrold Bates Tunnell)
ハーヴァード大学からJ.T.テイトの指導で「GL(2)に対する局所ラングランズ予想について(On the Local Langlands Congecture for GL(2))」によりPh.D.取得(1977).
ラトガース大学数学科教授.数論,保形関数論.合同数の特徴づけ(タネルの定理). [名3, 附E, 文] トップ
玉河恒夫(Tsuneo Tamagawa, 1925-)
日系アメリカ人.イェール大学教授。 代数幾何,代数群,代数的数論,保形関数論.アデール群上の調和解析.玉河数.多元環のζ関数,L関数.2次形式に関するミンコフスキー・ジーゲル・玉河の理論. [代15]
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タバチニコフ(Serge Tabachnikov=Sergei L'vovich Tabachnikov(Сергей Львович Табачников), 1956-)
モスクワ大学でD.B.フックスとフォメンコのもとで「無限次元リー代数のコホモロジーの幾何的応用(Geometrical applications of the cohomology of infinite dimensional Lie algebras)」によりPh.D.(1987). モスクワ国立教育大,モスクワ大学,1990年にアメリカに移り,アーカンサス大学助教授,2000年からペンシルヴァニア州立大学教授.
微分トポロジー,幾何学,力学系.数学的ビリヤード.
フックスとの共著『本格数学練習帳(Mathematical omnibus: thirty lectures on classic mathematics)』(2007). [フ], [幾7,11], [天VI.34]
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ダランベール,ジャン・ル・ロン(Jean le Rond d'Alembert, 1717.11.16-1783.10.29).
パリに生まれ、パリに死す。
騎士ルイ=カミーユ・デトゥシュ=キャノンとタンサン侯夫人クローディーヌ・アレクサンドリーヌ・ゲランとの私生児として生まれ、捨て子にされ、サン・ジャン・ル・ロン教会管区委員に育てられる。
フランス・アカデミー会員。ディドロとともに、百科全書の編纂。物理,数学を担当.力の概念を使わず力学を展開(ダランベールの原理),ダランベールの補題.
微分を極限と考えるのは彼による。 [解II.1, 8, III.1-2, IV.0, 文], [名5], [パ:ノート], [珠人], [伝1,2,6], [フ6], [率は,24], [作3, 付B], [クI序,2.2,3.3], [クII.3.3], [天VI.21] トップ
タルシ(Michael Tarsi).
イスラエル,テル・アヴィヴ大学数理科学科教授.グラフ理論. [天27], [天VI.39] トップ
タルスキ(Alfred Tarski, 1901.1.14-1983.10.26).
ロシア帝国ワルシャワ(現在ポーランド領)に生まれ,アメリカ・カリフォルニア,バークレイに死す.
ワルシャワ大学で,集合論をシェルピンスキに,ヤン・ウカシェヴィチとスタニスワフ・レシニェフスキに論理学を,タデウシュ・コタルビンスキに哲学を学ぶ.レシニェフスキ(Stanis\'|aw Le\'sniewski)の考案した論理体系の問題(論文はO wyrazie pierwotnym logistyki)で博士号取得(1924).
ポーランド教育大学,ワルシャワ大学で講師をしながら高校でも数学を教える.1929年にメンガーがワルシャワに来,その招待でウィーンを訪問し,ゲーデルやカルナップと交流.1933年にクワインがワルシャワに来たことでアメリカ行きの道が.
1939年8月にアメリカに移住しハーヴァード大学,カリフォルニア大学バークレイ校(1942,1949年に教授).
モデル論,数学的決定問題,代数的論理学,抽象代数,トポロジー,幾何学,測度論,数理論理学,分析哲学.
著書に『初等的代数と幾何のための決定法(A decision method for elementary algebra and geometry)』(1948), 『カーディナルな代数(Cardinal Algebras)』(1949),『決定不能な理論(Undecidable theories)』(1953), 『オーディナルな代数(Ordinal Algebras)』(1956),『論理,意味論,メタ数学(Logic, semantics, metamathematics)』(1956)など.
バナッハ・タルスキのパラドクス(1924),タルスキのプランク定理.タルスキのヒエラルキー. [フ19], [50.ピa,20] トップ
タルターリア、ニッコロ・フォンタナ(Niccolò Tartaglia = Niccolò Fontana, 1499(1500)-1557.12.15).
ヴェニス共和国、ロンバルディア、ブレーシャに生まれ、ヴェニス(ヴェネツィア)に死す。
数学・機械学・軍事技術者。砲弾が45°のとき最も遠くまで飛ぶことを主張(後、ガリレオ・ガリレイが証明した)。パスカルの三角形もその著書に載っている。エウクレイデスのイタリア語訳は『原論』の初めてのヨーロッパ語訳(1543)。アルキメデスのイタリア語訳も。業績は多彩。ルネサンス人の典型とも言える。
3次方程式の一般解を発見した人。
ダル・フェロによる3次方程式の代数解の発見を伝え聞き、独力で3次方程式の一般解を発見した(1535年2月13日の早朝)。ダル・フェロの弟子フィオルとの,30題を出し合っての,数学決闘の日の寸前だった.フィオルは師から伝えられた場合以外の3次方程式は解けなかった。当時はまだ負数が許容されていなかったし,文字代数の発明の前なので,方程式を文章で表現していたから「場合」が問題となる.
方程式は『解析教程』上I.1節の2次方程式の場合でもわかるように低次の係数の符号が変わると、図形で解く場合の解答の質まで変わることがある.3次方程式で図形的に意味のある低次の係数の組合せは3通りあり,タルターリアはその内2つの場合の解法を得た.後にカルダーノがアルス・マグナを書いたときには,3種類すべてが扱われた.
フランス軍のブレーシャ略奪のとき剣で切られ口に傷を負い言語障害になる(12歳のとき)。どもりという意味のタルターリアが通称になった。本名はニッコロ・フォンタナ。また生涯、ロンバルディア訛りがとれなかったといい、カルダーノやフェラーリとの論争の際には不利になったようだ。
文献
- 『さまざまな問題と発明』 (Quesiti et inventioni diverse), 1546.
- 『数と計測の一般論』 (General Trattato di numeri et misure), 1556-1560.
[解I.1, II.7, 文], [名5, 8], [フ4], [ふ6], [率0], [幾6,8,10] トップ
ダルブー(Jean Gaston Darboux, 1842.8.14-1917.2.23).
フランス、ニームに生まれ、パリに死す。
パリのエコル・ノルマル・スペリオールから,M.シャールの指導でSur les surfaces orthogonalesによりPh.D.取得(1866).
エコル・ノルマル・スペリオール(1872-1873)、ソルボンヌの教授(1873-1890)。ダルブー和、曲面論。ラグランジュの全集の編集。
弟子にボレル,カルタン,グルサ,ピカール,スティルチェス,ザレンバ(Stanislaw Zaremba, 1863-1942)などがいる. [解III.4-6, 文], [伝5,6,7,8,9], [微12], [積6,11], [フ29], [幾3], [クII.2.5] トップ
ダル・フェロ,シピオーネ(Scipione dal Ferro, 1465.2.6-1526.11.5).
イタリア,ボローニャに生まれ,ボローニャに死す.ボローニャ大学教授,3次方程式の代数解を最初に発見した人.死の直前,弟子のフィオル(Antonio Maria Fior=Froridus, Fiore)らに伝えた.
フィオルはこの秘密の式のおかげで,数学の公開試合で連戦連勝であり,
タルターリアにも試合をしかけた.
期日(1535.2.12)が迫ったタルターリアがフィオルの側に秘密の解法があることを聞き,懸命に解法を考えついに8日前,3次方程式の一般の解を発見した.
ダル・フェロは x3+ax = b (a,b>0) の形の方程式しか解いていなかったが,それを知らないタルターリアは x3=ax+b, (a,b>0) の形の方程式も解いたのである.負の数の概念がなかったため,この2つの型の方程式はまったく別のものと理解されていた.
1543年にカルダーノと共にダル・フェロの養子のアンニバーレ・デッラ・ナーヴェをボローニャに訪れたフェラーリが,ダル・フェロの手書きのノートの中に公式を見たという報告がある.
[解I.1], [名5, 8] トップ
タレス,ミレトスの(Thales of Miletus, 紀元前624年頃-547年頃).
小アジア,ミレトス(現在トルコ領)に生まれ,ミレトスに死す.
名の知られているギリシャ最初の哲学者.その意味で,あらゆる学問の父とも言われる.とくに,哲学,幾何学,天文学,航海術.ギリシャ7賢人の一人で,ソクラテス以前は彼だけ.
青年時代,エジプトを訪れ,メンフィスやテーベの学校で学ぶ.特に幾何学を学び,ギリシャに伝えたが,証明が必要であることを認識したのは彼だという意見が一般的である.そうだとすれば,その認識がギリシャをヨーロッパの学問の源にしたということで,それが学問の父と言われる所以だろう..
ミレトスに帰郷して哲学学校を創設.アナクシマンドロスを教えたとされる.彼の書いたものは残っておらず,既にアリストテレスもタレスの書いたものを見たことがないといっている.
奇癖や伝説の多い人で,とくに考え事に集中すると周りが意識されなくなるという類いのものは,タレスのことに発するものが多い.
航海にコグマ座(つまり北極星)を使うため,これを命名したと言う.紀元前585年5月28日の日食を予言.初等幾何の最初の部分はタレスによるとされる.たとえば,「対頂角は等しい」「二等辺三角形の底角は等しい」「円は直径で2等分される」「半円に内接する角は直角」など.またその知識を用いて,岸から船までの距離やピラミッドの高さを求めたとされる.
[黄3], [シ5], [ふ4], [幾序,1-4] トップ
タレーラン(シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール Charles Maurice de Talleyrand-Perigord, 1754.2.13--1838.5.17).
パリの生まれ.
フランス革命期からルイ・フィリップ朝までの政治家.外交家としての評価が高い.
名門貴族の長男.司祭(1779),ブルゴーニュのオータンの司教(1788),三部会の第一身分(聖職者)議員(1789),国民議会議長(1790),この年ローマ教皇ピウス6世から破門される.
国民議会の議員当時,『メートル法』制定の法案を提出した.
恐怖政治の時期は,イギリスからアメリカへ亡命(1792--).
1796年に帰国し総裁政府の外務大臣になり,1799年辞任.
ナポレオン・ボナパルトのクーデターに参加し外務大臣(1802),第1帝政期もナポレオンを支え,アミアンの和約などに関与.
その後のナポレオンの拡張政策に反対,列強の均衡を図るという立場から辞任し(1807),フーシェとともに反ナポレオン派のリーダーに.
ナポレオンの失脚(1814)後,連合国に請われて臨時政府の代表となり,ルイ18世の即位後は再び外務大臣となり,ウィーン会議(1814--15)に出席した.
この会議では,正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し巧みな外交手腕でフランスの国益を守る.
ナポレオンの百日天下(1815)の後,一時首相となったが,過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚.
その後はルイ・フィリップの7月革命(1830)を支持し,第1顧問となり,イギリス大使(1830--1834)を勤めた以外は引退生活を送る.
「金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」とか「絹の靴下の中の糞」とか酷評され,変節の政治家として嫌われることも多いが,フランスの国益を第1に考えた人でもある.
ラグランジュに対する「その天才によって全人類に栄光を与えた人」という評言は,フランスの人類文化への貢献を主張したい気持ちの顕れであろうか.
オーストリアのメッテルニヒと並び称される名外交官としての評価は今も高い.
[モ歴] トップ
ターンヴァルト,ゲルハルト(Gerhard Turnwald).
ウイーン工科大学から,Robert Franz Tichyの指導で,Gleichverteilung linearer Rekursionen(線形再帰の等分布)により,Ph.D.取得(1984).ディクソン多項式に関する,シューアの予想(シューアはこの予想をしなかったが)のFried の論文の間違いを正す.
[幾7] トップ
J.L.ダンカン(John L.Duncan).
カナダ,オンタリオ州マクマスター大学機械工学科(下の論文執筆時).ニュージーランド,オークランド大学機械工学科名誉教授(1998年退職)
J.P.ダンカンとの共著『折られた可展面』(Folded developables), Proc. Roy. Soc. London Ser. A 383 (1982), 191--205.
[フ15, 文] トップ
J.P.ダンカン(James P.Duncan).
南オーストラリア,アデレードの生まれ.アデレード大学で物理と工学を学ぶ(1954年工学修士).マンチェスター大学から理学博士(1964).1956年にシェフィールド大学機械工学科教授兼主任.1965年にカナダ,ブリティッシュ・コロンビア大学機械工学科に移り,1984年退職.
J.L.ダンカンとの共著『折られた可展面』(Folded developables), Proc. Roy. Soc. London Ser. A 383 (1982), 191--205.
[フ序,15, 文] トップ
ダンジョア(Arnaud Denjoy, 1884.1.5--1974.1.21).
フランス,ジェール県, オーシュに生まれ,パリに死す.
1902年にエコリ・ノルマル・シュペリオールに入学,ボレル,P.パンルヴェ,E.ピカールなどに学ぶ.エコリ・ノルマル・シュペリオールからベールの指導で「無限次の標準積について(Sur les produits canoniques d'ordre infini)」により科学博士号取得(1909).
モンペリエ大学でメトル・デ・コンフェランス(1909),ここでベールに影響を受ける.1914年に第1次世界大戦が始まるまで教えたが,近視のため軍務に就けなかった.
ユトレヒト大学教授(1918),パリ大学(1922-55引退).
実関数論,トポロジー的手法を導入.ダンジョア積分,収束三角級数の係数の計算,準解析関数,トーラス上の微分方程式.
[伝8], [辞] トップ
ダンツァー(Ludwig W. Danzer, 1927.11.15--2011.12.3).
ミュンヘン工科大学から,Hanfried Lenz,Frank Löbell,Robert Sauerの指導で,「2つの貯蔵問題について(Über zwei Lagerungsprobleme)」により自然科学博士号取得(1960).
ドイツ,ドルトムント工科大学数学科.凸体の幾何,離散幾何.タイル貼り.
ダンツァー集合,ダンツァー立方体.
『凸多面体(Convex Polytopes)』(1967)(2003,Volker Kaibel, グリュンバウム,ツィーグラー共編),
弟子にEgon Schulteなど. [天13], [天VI.17] トップ
ダンテ・アリギエリ(Dante Alighieri, 1265--1321.9.14).
イタリアの都市国家フィレンツェに生まれ,ラヴェンナに死す.
ダンテ(Dante)は,「永続する者」の意味を持つ洗礼名ドゥランテ(Durante)慣習的短縮形である.
イタリア文学最大の詩人とされ,ルネサンスの先蹤とも言われる.詩人,哲学者,政治家.
9歳のときに1度,18歳のときに1度あっただけの,同い年のベアトリーチェ・ボルティナーリに対する精神的な恋愛は,彼女が銀行家と結婚し数人の子供を産み24歳で病死してから(1290),生涯をかけてベアトリーチェを詩の中に永遠の存在として賛美していくことになる.
代表作である詩文集『新生』や叙事詩『神曲』はその結実である.
13世紀の北部イタリアは,ローマ教皇庁の勢力と神聖ローマ帝国の対立抗争で,血みどろの戦いを繰り広げられた.グェルフィ党(教皇派)に属したフィレンツェの市政に参画していった.
それには勝利したものの,教皇派の中が,フィレンツェの自立政策を掲げる富裕市民層から成る「白党」と、教皇に強く結びつこうとする封建貴族支持の「黒党」に分裂対立した.
最初は白党が市の政権を握り,小貴族のダンテは白党の最高行政機関プリオラートを構成する3人の統領の一人に任命される(1300).
1301年には黒党が政変を起こして実権を握っため,教皇庁へ特使として派遣されて、フィレンツェ市外にいたダンテは長年にわたって流浪の生活を余儀なくされ,故郷フィレンツェに戻ることはなかった.
1318年頃からラヴェンナの領主のもとに身を寄せた.死因は長旅の途上で罹患したマラリアであった.
フィレンツェはたびたびラヴェンナにダンテの遺骨の返還を要求しているが,ラヴェンナはこれに応じていない.
[モ歴] トップ
ダンドラン,ジェルミナル・ピエール(Germinal Pierre Dandelin, 1794.4.12--1847.2.15).
フランス,パリ近郊のル・グールジェに生まれ,ベルギー,ブリュッセルに死す.父はフランス人で,母はベルギー人.
初めベルギーのゲントの学校に行き,1813年にパリのエコール・ポリテクニクに入学.
フランス,ベルギーなどでの技術将校としての軍務やリエージュ鉱山工科大での教授などを歴任.
ナポレオンに従って戦争で負傷,L.カルノーのもとで内務省で働く.
百日天下後はベルギーに戻り,1817年にオランダの市民権を得る.
数学的業績には幾何での,円錐曲線に関係したダンドラン球面やその回転双曲面への拡張や球面の立体射影などに関するものがある.また,代数,統計,確率にも業績がある.代数方程式の根を近似するダンドラン・グレッフェ(Karl Heinrich Gr\"affe)法.
立体射影,代数,確率論に関する著作もある.
[直8], [幾3] トップ
タンヌリ,ジュール(Jules Tannery, 1848.3.24--1910.12.11).
フランス,マント・スュール・セーヌ(セーヌ河畔のマント)に生まれ,パリに死す.
フランス国鉄の技師デルフィン・タンヌリの第3子.兄のポールは数学史家で天文学者,父の仕事のため幼少時は引越しが多く,中等教育はカンのリセで修了(1866).エコル・ポリテクニクとエコル・ノルマルの両方に上位の成績で合格し,後者に入学.1869年に卒業後,レンヌのリセ,カンのリセ(1871),パリのエコル・ノルマル(1872)で教える.子供の頃ローマ・カトリックとして育ち,この頃の宗教上の危機を,古代の哲学者ルクレチウスの倫理・論理的なアイデアで克服.
C.エルミートの指導で,論文「変数係数の線形微分方程式の積分の性質」で学位(1874).その後,リセ・サンルイやソルボンヌでも教え,1903年からはパリ大学の微積分学の教授.教育改革にも力.弟子にP.パンルヴェ,J.ドラック,E.ボレルなど.
ガロアのノートや手紙の研究.関数論,楕円関数などの教科書や,数学教育での集合論的な傾向を推進.『数学紀要Bulletin des Sciences Mathematiques』の編集者を1876年から死ぬまで34年間勤める.
[伝7] トップ
ダンハム,ウィリアム(William Dunham).
ピッツバーグ大学卒(1969),オハイオ州立大から修士号(1970),Norman Levineの指導でGeneralized Closed Sets And T(,1/2)-Spacesにより,Ph.D取得(1974).
トポロジーを学んだが,数学史に興味を移し,とくにオイラーに強い関心.
著書数冊.日本語に訳されているものに『数学の知性:天才と定理でたどる数学史』(Journey through Genuis: The Great Theorems of Mathematics,1990), 『数学の宇宙-アルファベット順の旅』(An Alphabetical Journey Through the Great Proofs, Problems, Personalities,1994),
『オイラー入門』(Euler: The Master of Us All, 1999)がある. "Euler and the Fundamental Theorem of Algebra" in The Genius of Euler: Reflections on his Life and Work. Mathematical Association of America(2007),
"The Calculus Gallery" (1st ed.). Princeton University Press, 2008), "Great Thinkers, Great Theorems" (2010).
[幾4] トップ
タンブス=リーチェ,ラルフ(Ralph Tambs-Lyche, 1890.9.6--1991.1.15).
アメリカ,ジョージア州ビッブ郡メイコンに生まれ,2歳のとき父の故郷のノルウェイに戻る.
1908年にフレドリクスタ(Fredrikstad)で中等教育を終える.ちなみにこの町は南極点に最初に到達したロアルト・アムンセン(Amundsen)の生地である.
1910年にノルウェイ工科大学で,数学者Richard Birkeland (1879-1928) の助手になり,同時に王立フレデリク大学(後のオスロ大学)に入学,1916年にCandidatus realium(ノルウェイの学問上の称号でPh.D.と訳されることもある)として卒業.
1918年にノルウェイ工科大学の私講師となる.1927年にはストラスブールのルイ・パスツール大学から2年間のフェローの後,「実関数の場合のアーベルの関数方程式についての研究(\'Etudes sur l'\'equation fonctionnelle d'Abel dans le cas des fonctions r\'eelles)」により博士号取得.1937年に教授.
オスロ大学教授(1950-1961).コロラド大学客員教授(1961-62).
数学解析,関数論,代数,整数論.
60編の数学論文以外に,数点の植物学の出版物があり,ハーバリスト(植物標本家)でもある.
高校の教科書や大学の解析の教科書でも広く知られている.
ナチがノルウェイを占領していた時にはファルスタッド強制収容所に収容された(1942.3.9-1943.8.3). [フ2] トップ
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チェイカリアン(Gulbank Don Chakerian).
カリフォルニア大学バークレイ校からファーリの指導で「ミンコフスキー平面における積分幾何(Integral Geometry in the Minkowski Plane)」によりPh.D.取得(1960).
30年以上カリフォルニア大学デービス校教授.幾何的不等式論,凸集合の幾何.数学解説,数学教育の著書も多い. [天10] トップ
チェイス,アーノルド・ブッファム(Arnold Buffum Chace, 1845.11.10-1932.2.28). アメリカ,ロードアイランド州ヴァレイフォールズに生まれ,ロードアイランド州プロビデンスに死す.
ブラウン大学卒業(1866)後,2年間ハーヴァードとパリのエコル・ド・メデシンで科学,特に化学の研究をする.
ブラウン大学で化学の講師をしながら(1868-69),ハーヴァードで生物の講義を受ける.この時点でアカデミックな経歴を諦め,
ヴァレイフォールズ会社の経営,綿糸工業をする.
しかし,科学への関心を捨てきれず,四元数に興味を持ったとき,ハーヴァード大学にパースを週に1回,ほぼ1年間訪問して,四元数を研究.
1890年代にはブラウン大学のHenry Parker Manningの高等数学のクラスの常連の参加者になっていた.
1910年に妻とともにエジプトを旅し,エジプト文明に魅かれ,2年後大英博物館の死者の書とリンドパピルスのコピーを購入する.
妻とともにヒエログリフの読み書きの勉強を始め,妻は絵の素養があり,大英博物館のリンドパピルスのヒエログリフを模写する.
チェイスはその下に英語訳をつけるという作業をつづけ,77歳の時,メトロポリタン博物館のエジプト部門のLudlow BullとHenry Parker Manning教授の援助を取り付けた.
大英博物館は彼に,リンドパピルスの写真に数学的コメントをつけたものを出版することを許可した.ロードアイランドのデザイン学校の学生たちが協力して109枚の図版を作ってくれた.MAAからの資金援助も受け,1924年に亡くなった妻にささげたリンドパピルスの英訳は1927年に初版が,1929年に第2版が出版された.
[名文] トップ
チェカノフ(Yuri Chekanov ).
モスクワMCCME(Moscow Center for Continuous Mathematics Education),チューリヒ工科大学ETH.
V.I.アーノルドの4予想の解決(2005)..
ルジャンドルリンク,ルジャンドル結び目,ラグランジュ・トーラスなど.
チェカノフ=エリアシュベルグ不変量.
[フ10,文] トップ
チェザロ(Ernesto Ces\`aro, 1859.3.12-1906.9.12).
イタリア,ナポリに生まれ,トッレ・アンヌンツィアータに死す(海で溺れた息子を助けようとして溺死)。
ダルブーの影響強く、自然幾何学。ローマ大学卒業(1887)。パレルモ大学教授(1891-死)。
チェザロ方程式,チェザロ平均,チェザロ和.
[解III.1] トップ
チェ-ジ,フェデリーコ・アンジェロ,モンティチェリ候(Federico Angelo Cesi, 1585.2.26-1630.8.1.). ローマに生まれ,アックアスパルタに死す
18歳の時(1603),リンチェイ・アカデミー(Academia dei Lincei)を創設し.科学研究のための学会.
リンチェイとは山猫のことで,その目のように鋭く物事を見抜くという意味がある.ガリレオ・ガリレイは5番目の会員として1623年に入会.
チェージの死後アカデミーは消滅したが,何度か再興しては消滅を繰り返した.現在は,1946年にG.カステルヌーヴォによって再建され,ローマのコルシーニ宮殿にある.
[天VI.27] トップ
チェック(Edouard Cech, 1893.6.29-1960.3.15.).
ボヘミア(現チェコ共和国),ストラーチョフ(プラハ近郊)に生まれ, チェコスロヴァキア(現チェコ共和国),プラハに死す.
1912年,教師になることを目指してプラハのチャールズ大学哲学部に入学.物理に興味が湧かず,数学と画法幾何学のコースを選び,さらに図書館でより高度な数学を独習.1915年に第1次世界大戦が勃発し,オーストリー・ハンガリー軍に入隊.3年間にイタリア語,ドイツ語,ロシア語を習得.戦後チャールズ大学に戻り,数学教師の資格を得る.
プラハの中学で教師をしながら研究を続け,博士号を得る(1920).1921年にイタリアに留学し,フビニと知り合い,フビニの求めで,帰国後も交流を続け,射影微分幾何に関する2巻本の共著をものする(1926,1927).
1922年に帰国後,チャールズ大学の無給講師となるが,中学の教師を続け収入を得る.
1918年チェコ人とスロヴァキア人がオーストリアの支配から脱し,指導者のマサリュクが初代大統領になり,1年後チェコスロヴァキア第2の大学であるマサリュク大学が(ブリュノに)設立され,1920年にその初代数学教授になったマティアス・ラーチが1922年に死に,その後任にポストを得る.1923年特別教授,1928年には正教授.彼自身は幾何に興味があったが,ラーチの後任であるため,解析学教授であった.もう一人の教授はザイフェルトであり,彼が幾何の教授.
解析と代数の講義をする必要から数学全体に興味が広がり,とくにポーランド学派の影響で,トポロジーに関心が移る.点集合論と代数トポロジーの融合を図り,チェック・ホモロジーを定義.射影極限の概念を導入.
1932年のチューリヒのICMで球面の高次のホモトピー群を導入.ホモロジー論を局所ホモロジー論に拡張.モスクワのトポロジーの会議で彼の話を聞いたレフシェッツの招きでプリンストンへ(1935-36).
その後ブリュノでトポロジーのセミナーを始める.
[ワ8], [伝9], [辞] トップ
チェバ,ジョヴァンニ・ベネデット(Giovanni Benedetto Ceva, 1647.12.7-1734.6.15).
イタリア,ミラノに生まれ、マントヴァに死す。トマスの兄.
ミラノのイエズス会カレッジで学んだ後.ピサ大学(1670年入学)で,論理学者学Donato Rossetti (1633-1686)のもとで学ぶ.またその頃リッチに会う.その後ピサ,ローマ,マントヴァに住む.
1683年にマントヴァ公爵からマントヴァの市民権を与えられ,1686年にマントヴァ大学教授になる.主なテーマは幾何で,ギリシャ時代から17世紀までの綜合幾何に捧げる.三角形の頂点を通る3直線が共点であるための条件を与える有名なチェヴァの定理は『相互に交わる直線について De lineis rectis 』(1678)にある.これは11世紀に既にアル・ムタマンによって知られていたことが近年知られるようになった.
メネラウスの定理も再発見した.力学を幾何に応用する.また,無限小解析の萌芽的議論のあるGeometria Motus (1692) や,マントヴァの貨幣制度の均衡の条件を模索した数理経済学の最初期の仕事であるDe Re Nummeraria (1711),その知識でリノ川を分流してポー川へ流し込むという計画を止めさせた水力学のOpus hydrostaticum (1728)などの著作もある.
[直3], [幾4] トップ
チェバ,トマス(Tommaso Ceva, 1648.12.20-1737.2.3).
イタリア,ミラノに生まれ、ミラノに死す。ジョヴァンニの弟.
15歳のときイエズス会に入り,神学の学位を取得.ミラノにあるブレラのイエズス会カレッジで,40年以上数学と修辞学の教授を勤めた.弟子にはサッケーリがいる.ヴィヴィアーニやグランディ(Luigi Guido Grandi)などの数学者たちと文通.
数学的業績をまとめたOpuscula Mathematica には,幾何,重力,算術などが含まれる.直角を任意の数の角に等分する器具を発明した.
ラテン語の詩人としても有名で,Jesus Puer は多くの言語に翻訳される.詩を作る方に数学よりも多くの時間を使ったという.
トップ
チェビシェフ(Pafnutii L'vovich Chebyshev=Tchebychef, 1821.5.16-1894.12.8).
ロシア、オカトヴォに生まれ、サンクト・ペテルブルグに死す。
ペテルブルグ大学教授(1847)。ペテルブルグ数学学派の創始者。整数論ではベルトランの仮説の証明。素数定理の証明の本質的部分。確率論では中心極限定理など。チェビシェフの不等式,チェビシェフの偏り,など名を冠するものも多い。 [解II.6], [名4], [珠説2.5], [天2, 4, 17], [伝3,4], [代入3,4,6], [フ7,18], [幾5,解], [天VI.2,4,23] トップ
チェルナック(Ladislaus Chernac, 1742-1816) ハンガリーの生まれだが,オランダのデーフェンテル(Deventer)に移住した.1811年に,百万までの数の因数分解の表『算術の篩(Cribrum arithmeticum)』を出版した.
[クI.1.3] トップ
チェン(Jing-Run Chen=陳景潤, 1933.5.22-1966.3.19)
中国福建省福州に生まれ,北京に死す.1949年中学校卒業後厦門大学数学科に入学,卒業前に,成績優秀のため北京第4中学校の教師になる.余暇に華羅庚(Hua Luo-Geng)の加法的整数論を学ぶ.1954年厦門大学の図書館員となり,数学の研究を続けテーゼを出版.華羅庚の注目する所となり,1995年に北京の中国科学院・数学研究所の所員となる.以降,華羅庚の指導の下,精力的に研究を続ける.人民大の代議員になったり,科学院の正式会員にもなる(1980.11).2つの数学雑誌``Transactions of Mathematics''と``Mathematics Quartery''の主編集者も勤める.
整数論.ヒルベルトの第8問題に強い関心をもち,ウェアリングの問題( g(5)=37 ),ゴールドバッハの問題,双子素数定理に貢献(1973).
半素数(semiprime)とは2つの素数の積となる合成数のことで,陳素数(Chen prime)とは,素数pであって,p+2が素数または半素数であるもののこと.
陳素数が無限にあることは1973年に陳が示し,2005年にテレンス・タオ(陶哲軒)とベン・グリーン(Ben Joseph Green)が陳素数の3項等差数列が無限に存在することを示した.
[珠3.1, 説2.6, 3.11, 文] トップ
チホノフ(Andrei Nikolaevich Tikhonov, 1906.10.30--1993.11.7).
ロシア,スモレンスク州,グジャーツカに生まれ,モスクワに死す.
モスクワ大学入学(1922).1925年,学生の間に最初の論文を書く.それは
P.S.アレクサンドロフとウリゾーンの,積の距離化条件に関係した研究を進めたもので,1926年までに一般の積空間に位相を与える.局所凸位相空間のコンパクトな凸集合上の連続写像に対するチホノフの不動点定理(1935).
教授資格論文は「ヴォルテラ型の関数方程式と数理物理学への応用」(1936)で,E.ピカールの微分方程式の解の近似法の拡張であって,熱伝導に応用したもの.
モスクワ大学教授(1936).ill-posedな問題に関しても一連も論文がある.
トポロジー,関数解析,計算数学.
[伝10] トップ
チホミロフ(Vladimir Mikhailovich Tikhomirov, 1934-.)
A.コルモゴロフの下で,モスクワ大学で学位.
モスクワ大学力学・数学部・最適制御講座主任.教育問題にも強い関心と貢献.多くの数学雑誌の編集者であり,啓蒙雑誌「クヴァント」の副編集長でもある.啓蒙書『最大と最小の話』も有名.モスクワ独立大学の創設者の一人.
関数解析,極値問題,近似理論,凸解析. トップ
チャーチ,アロンゾ(Alonzo Church, 1903.6.14--1995.8.11.)
アメリカ,ワシントン特別区に生まれ,オハイオ州ハドソンに死す.
論理学者、数理論理学.
プリンストン大学卒(1924),オズワルド・ヴェブレンの指導で、公理的集合論に関する論文で博士号取得(1927).ハーヴァード大学、ゲッティンゲン大学等を経て、1929年にプリンストン大学助教授に就任。1939年には準教授、1947年には教授に昇格した。1967年、プリンストン大学を退官し、その後は1990年に退官するまでカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)教授を務めた。
プリンストン大学時代には、S・C・クリーネ、ジョン・ロッサー、アラン・チューリング、レオン・ヘンキン、デイナ・スコットをはじめとする多くの弟子を育てる.
ラムダ計算の創案、「チャーチ=チューリングのテーゼ」の提唱,1階述語論理の決定不可能性証明.『記号論理学雑誌』 (Journal of Symbolic Logic) の創刊者の一人.
[伝8], [辞] トップ
チャプル(William Chapple).
アマチュア数学者.
1746年に"An essay on the properties of triangles inscribed in and circumscribed about two given circles(与えられた2円に内接する三角形と外接する三角形の性質に関する試論)", Miscellanea Curiosa Mathematica, 4: 117–124を発表.三角形の内接円と外接円の半径の間の関係を述べる.その結果はオイラー(1767)によるものとされていたが,後にチャプルが先に発表していたことが知られ,オイラー・チャプルの公式と呼ばれるようになった.
[幾7,11] トップ
茶屋四郎次郎(Chaya Shirojiro, 天正12年(1584)-元和8年7月16日(1622.8.22)).
生没年は3代清次のもの.初代清延(1545-1596.9.19)が徳川の御用商人となって以来,公儀呉服師を世襲した京都の豪商で,当主は代々「茶屋四郎次郎」を襲名する.3代は初代の次男で,呉服商以外に,1612年に朱印船貿易の特権を得,特にベトナム北部に船を派遣し、莫大な富を得た.家康の代官や側近でもあり,角倉家,後藤四郎兵衛家とともに京都町人頭を世襲し,「京の三長者」と言われた.
鎖国後は朱印船貿易特権を失い、以後は呉服師・生糸販売を専業とするようになる。10代延国(延因)時代の寛政12年(1800)には納入価格をめぐって呉服御用差し止めを受け、文化7年(1807)に禁を解かれたものの以降はふるわず、明治維新後間もなく廃業した.
数学と関係するのは関流宗統五伝日下誠が茶屋の手代をしていたということだけ.日下が手代をしていた頃はまだ,衰退期に入る前であったようである. [文2] トップ
チャーン(Shiing-Shen Chern=陳省身, 1911.10.26-2004.)
中国浙江省嘉興に生まれ,天津に死す.
天津の南開大学卒業(1930),精華大学大学院(1931-1934).1934年ハンブルク大学に入学し,W.ブラシケ,E.アルティンに学び,理学博士(1936).パリに移動し,エリー・カルタンに学ぶ.1937年に精華大学教授となって帰国するも,日中戦争のせいで,大学は香港に移動し,南西連合大学となっていた.1938年,大学は昆明に移動し,1943年に,プリンストン高等研究所へ招聘される(-1945).ワイルやアンドレ・ヴェイユと親交.戦後中国に帰国し,2年ほど中国科学院に関わり,アメリカに戻る.シカゴ大学教授(1949-1960)の後,カルフォルニア大学バークレイ校教授,バークレイ数理科学研究所所長(1982-84).1985年南開数学研究所初代所長に.
バークレイを退職するときの記念シンポジウムの序文で,I.M.シンガーは,「我々にとって,S.S.チャーンは現代微分幾何学そのものである」と語っている.
閉じたリーマン多様体上のガウス-ボネの定理に与えた簡単な証明(1944),その後の特性類の研究にとって重要.チャーン類,チャーン=シモンズ類,チャーン=ヴェイユ理論など. [ト6, 文],[フ18] トップ
チャンドラセカラン(Komaravolu S.Chandrasekharan, 1920-)
インド,マドラス管区大学(Presidency College)で,K.A.ラウの指導でPh.D.取得(1946).
タタ研究所,ムンバイ大学,チューリヒ工科大学教授.整数論(チャンドラセカラン・ページ関数).
著書に『フーリエ変換』(1949,S.ボホナーと共著),『解析的整数論入門』(1968),『数論的関数』(1970),『楕円関数』(1985)など
[モ歴] トップ
チュドノフスキー,デイヴィッド(David Volfovich Chudnovsky)
第2次大戦後にウクライナ,キエフの生まれる.父親のヴォルフ・グリゴリエヴィッチはキエフ建築大学の土木工学の教授.母親も技師で,兄弟は早くから数学を教えられる.父親は1985年に心臓病で亡くなる.
兄弟ともに整数論と数理物理学の研究者で,ブルックリンの工芸大学のindustry professorで,コロンビア大学の上級研究員.結婚して,弟のアパートの近くに住み,1日の大半を弟の家で過ごすらしい.
弟のグレゴリーとともに,πの計算の世界記録を作る.1989年に金田・田村と,激しい競争を展開する.
チュドノフスキーの公式と呼ばれる1/πに収束する無限級数を発見し,それを使って,4億8000桁,5億3533万桁,10億1119万6691桁と,次々と記録を発表した.ほとんどのステップで有理数表現を使っているので,計算の再スタートが可能である点が有利だが,桁数を上げると急速に時間が掛かるようになる.家のスーパーコンピュータを用いて,1991年に22億6000万桁,1996年3月80億桁以上の記録を作る.
トップ
チュドノフスキー,グレゴリー(Gregory Volfovich Chudnovsky)
デイヴィッドの弟.12歳のとき重症筋無力症と診断される.両親はこの病気の治癒・改善のため家族がウクライナを出国することの許可を得ることに成功し,1977年に出国し,初めパリに6ヶ月滞在し,その後ニューヨークに落ち着き,兄弟ともアメリカの市民権を得ている.現在は母親と二人でマンハッタンのウェスト・サイドに住んでいる.
πの計算のためのスーパー・コンピュータの使用料が嵩むので,グレゴリーの自宅に自前のスーパーコンピュータを設置した.居間を占領した上,他の部屋にもはみ出しているという.
トップ
チューリング,アラン・マチソン(Alan Mathison Turing, 1912.6.23--1954.6.7.)
イギリス,ロンドン,メイダヴェールに生まれ,チェシャー州ウィルムズローに死す.
ケンブリッジ大学キングス・カレッジで学び(1931-34),フェローになり(1935),チューリングマシンの概念を提出(1936).プリンストン高等研究所でアロンゾ・チャーチに師事(1936.9--1938.7),博士号取得(1938).第2次大戦前の1938年9月から政府暗号学校 (GCCS) でパートタイムで働き,エニグマの解読に集中.1945年から1947年までイギリス国立物理学研究所 (NPL) でACE(Automatic Computing Engine)の設計を行う。1948年にマンチェスター大学数学科の助教授になり,1949年にマンチェスター大学のコンピュータ研究室に移る.
チャーチ--チューリング--ドイッチ原理(CTD原理),チャーチ--チューリングの提唱,テーゼ,チューリング機械.チューリング・パターン,チューリング不安定性. [50.21,28]
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チルンハウゼン(Ehrenfried Walter von Tschirnhausen, 1651.4.10-1708.10.11.)
ドイツ,キスリングスヴァルド(ゲルリッツの近く)に生まれ,ドレスデンに死す.
1668年にライデン大学に入学し,数学,哲学,医学を学ぶ.1672年にフランスとオランダの戦争が起き,学生軍のリストには載ったが実戦には出なかった.1674年イギリスに行き,ウォリスやコリンズと会い,またパリに留まりライプニッツやホイヘンスと親しむ.
方程式や曲線の研究をする.n次方程式から,xn-1 とxn-2の項を消去する変換(チルンハウゼン変換)を発見する.与えられた曲線で反射する点光源の光の包絡線を求める.渦状点を持つ曲線.代数,幾何,解析(カヴァリエーリの不可分量の方法)など著作多し.
マイセンに彼の考案の磁器の工場ができる.ハレ大学から学長に招聘されたが断る.晩年は借金に苦しむ. [パ15] トップ
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つ 
ツァッセンハウス(Hans Julius Zassenhaus, 1912.5.28-1991.11.21)
ドイツ,コブレンツ=モーゼルヴァィスに生まれ,アメリカ,オハイオ,コロンバスに死す.
1930年ハンブルク大学入学.初めは数学と原子物理に惹かれていたが,ヘッケとE.アルティン,特にアルティンにより数学に導かれ,その指導で学位を取る.そのころツァッセンハウスの補題を示した(ジョルダン・ヘルダーの定理の簡単な証明をするのに使う).
1934年の学位論文では,3重推移的なツァッセンハウス群の分類をする.この分類は後にゴーレンシュタインが指揮した有限単純群の分類で重要な役割を果たす.
ロストック大学に勤務中(1934-36),アルティンの講義をもとに『群論講義』Lehrbuch der Gruppentheorieを書く.1936年ハンブルク大学でアルティンの助手になる.このころ有限標数のリー環の研究をする.
ナチズムへの嫌悪感から正式の職につかず,第2次大戦中は天気予報の仕事をする.1934年にはボン大学から就任の教授就任の要請があったが受けず,戦後にナチに依って退職させられていた人に譲る.ハンブルク大学に戻り,その後1949年にモントリオール大学,1959年にノートルダム大学教授,1964年にオハイオ州立大学研究職教授になり退職まで勤める.
現代代数学.環,有限群,普遍多元環,リー環など.また計算機を使った代数的整数論の方法を研究,ガロア群,整基底,類群などの計算をした.
『群論教程I』Lehrbuch der Gruppentheorie I (1937). 教育にも関心があり,『大学以前の代数の教育』On the teaching of algebra at the pre-college levelなどを書いた. [天5], [ワ1], [天VI.6] トップ
ツアンネ・デ・トニニ・ダ・コイ(Zuanne de Tonini da Coi(Clolla), 16世紀)。
タルターリアの故郷ブレーシャの数学教師。タルターリアに問題を出したり、カルダーノを訪れたりということだけで知られている人物。 [解I.1.5] トップ
ツィーヴ(Michael E. Zieve, ).
アメリカ,ミシガン大学数学科助教授(2009--2012),教授(2012--).ハーヴァード大卒業(1992)後,カリフォルニア大学バークレイ校でPhD(1996,指導者はHendrik Willem Lenstra, Jr.).
代数,整数論,算術幾何,力学系,アルゴリズム,計算の複雑さ,離散数学,暗号理論など.
[フ2] トップ
ツィオルコフスキー(Konstantin Eduardovich Tsiolkovsky, 1857.9.5(17)--1935.9.19.
ロシア,リャザニ州,イジェーフスコイエ村の生まれ.生涯の大半をオカ河畔の町カルガの郊外で暮らす.
猩紅熱にかかってほとんど聴力を失う(1866).中学で数学を教えながら,ロケットの研究をする.
ロケットや軌道エレベータの着想で知られ,現代ロケット工学の基礎的理論を構築した.ツィオルコフスキーの公式.「宇宙旅行の父」と呼ばれる.
1911年に知人への手紙の中で
地球は人の揺り籠であるが,永遠に揺り籠の中にいることはできない
と述べている.人類初の人工衛星スプートニクは彼の生誕100年を記念して1957年に打ち上げられた.
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ツィーグラー(Günter M. Ziegler, 1963.5.19-).
西ドイツ,ミュンヘンの生れ.ミュンヘン大学(1981-1984)卒業後,MITにおいて,アンダース・ビョルナー(Anders Björner)のもとで「超平面配列の代数的組み合わせ論(Algebraic Combinatorics of Hyperplane Arrangements)」により,Ph.D.取得(1987).その後アウグスブルク大学やミッタク・レフラー研究所でポスドクをして,1995年からベルリン工科大学離散数学教授,ベルリン自由大学教授,学長(2018-).
離散幾何学,計算幾何学,代数幾何や位相幾何での組合せ論的方法,多面体の組み合わせ論,グラフ理論など.ライプニッツ賞受賞(2001).接吻数に関する仕事でショーヴネ賞受賞(2006). ドイツ数学会会長(2006-2008).
アイグナーとの共著『天書の証明』や,『多面体講義』(Lectures on Polytopes)などの著書もあり,スティール賞受賞(2018). [天序,7, 14], [50.3], [天VI序,10,18] トップ
ツヴァベリ(Helge Arnulf Tverberg, 1935.3.6-2020.12.28).
ノルウェー,ベルゲンの生まれ.
ベルゲン大学数学科講師(1958-1971),教授(1971-2005).
組み合わせ論的幾何,グラフ理論,4色問題.
ツヴァベリ分割定理(1965). [天8], [天VI.11] トップ
ツェルメロ(Ernst Friedrich Ferdinand Zermelo, 1871.7.27-1953.5.21).
ドイツ、ベルリンに生まれ、フライブルグに死す。
ベルリン大学からL.I.フックスとH.A.シュヴァルツの指導で「変分法に関する研究(Untersuchungen zur Variations-Rechnung)」により哲学博士号取得(1894).
フライブルク大学教授(1906)。1935年ヒットラー政権の拒絶により教授職を放棄し,1946年復帰する.
ツェルメロの集合論、ツェルメロ-フレンケルの集合論。選択公理。変分法や統計力学の業績もある。カントール全集の編集。 [解文], [天15], [ワ著2], [50.20], [天VI.19] トップ
ツェン,(そ・けいし,曽烱之,Chung-Tze Tsen, 1898.4.2-1940.11).
中国江西省新建県上新建生米街(南昌市の近く)に生まれ,西昌市に死す.曽烱とも言い,現在のつづりでは Zeng Jiong と書かれるべきである.武昌高等師範学堂Wuchang Senior Normal College卒(1926).1928年ベルリン大学で語学研修の後,1929年夏,ゲッティンゲン大学に留学.ネーター・ボーイズの中の唯一の中国人.Chiungtze C.Tsenという綴りで,3編の論文を発表している.1934年2月20日PhDを取得.E.アルティンの招きでハンブルク大学へ.1935年7月中国に帰国.浙江Zhejiang大学の陳建功(Kien-Kwong Chen, 1893-1971)の招きで助教授になる.1937年夏,北洋工科大学Beiyang Institute of Technology(以前は北洋大学で,また後に天津Tienjinn大学に改名)の教授.日中戦争が激しくなってから,北京大学などと一緒に疎開し,一旦は西安,後に西康省西昌市Xichangに移る.1939年に作られた国立西康技芸専科学校National Xikang Institute of Technologyで働くが,劣悪な環境のため,42歳で胃潰瘍で死ぬ.正確な命日は知られていない.
多元環の整数論や不定方程式論.「関数体上の加除代数」Divisionsalgebren uber Funktionenkorpern(Nachr. Ges. Wiss. Goettingen, Math.-Phys. Kl.1933, pp.335-339)に定理「代数的閉体の既約な代数曲線の関数体上には,それ以外の有限ランクの中心的多元体は存在しない」,「代数的閉体上の1変数有理関数体は準代数的閉体である.」1934年の学位論文はこの内容を詳しく述べ,ネーターとアルティンによる別証も載せたもの.第3論文は J.Chinese Math.Soc.1(1936), 81-92 に載った「可換体の準代数的閉性の段階理論について」Zur Stufentheorie des quasi-algebraisch-Abgeschlossenheit kommutaive Korper.
[代11] トップ
ツォイテン(Hieronymus Georg Zeuthen, 1839.2.15-1920.1.6. ).
デンマーク,西ユトランド,グラムストループに生まれ,コペンハーゲンに死す.
コペンハーゲン大学数学科に入学,修士修了(1862)後,パリに行きシャールに師事,強い影響を受ける.シャールのアイデアを押し進めた数えあげ幾何学で,コペンハーゲン大学から(Nyt Bidrag til Lae ren om Systemer af Kegelsnit, der ere underkastede 4~Betingelser)によりPh.D.(1865).1871年よりコペンハーゲン大学特任教授と雑誌Matematisk Tidsskriftの編集者(18年間)になる.
1886年に通常教授になり,学長を2期勤める.
1875年以後,力学や代数幾何,特に代数曲面論に関して業績がある.与えられた曲線族に接する曲線の数を数えるなどの問題を考える.ツォイテン・セグレ不変量.
古代ギリシャ数学史と近代初期の数学史の業績は有名.アポロニウスが斜交座標を使っていたことや,ピュタゴラス自身が√2の無理数性を示したこと,テオドロスの√3,...,√17の無理数性の証明に関して,テオドロスの目標が√17と√19の連分数展開にあったと論じている.
著書に『古代と中世の数学史』,『16,17世紀の数学史』.
19世紀末の数学史家としては,M.カントールと併称されている.
[クI.1.5,附B], [クII.3.2]
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ツォルン(Max August Zorn, 1906.7.6-1993.3.9).
ドイツ、クレフェルトに生まれ、アメリカ,インディアナ,ブルーミントンに死す。
ハンブルク大学からE.アルティンの指導で「交代環の理論(Theorie Der Alternativen Ringe)」によりPh.D.取得(1930).
短期間ハレ大学に勤務するが,ナチから逃れアメリカに亡命(1933).1933-1936の間はイェール大学のフェロー.このとき有名なツォルンの補題を発表.カリフォルニア大学ロスアンジェルス校助教授(1936-1946),インディアナ大学教授(1946-1971).インディアナ時代,毎日大学に現れ,あらゆる会合に出て,皆からマックスおじさんと,親しまれていたと言う.
数学的には,集合論,トポロジー,代数学など.ツォルンの補題やケイリー数の一意性の証明で有名. [代4], [天VI.22] トップ
塚本明毅(Tsukamoto Akitake, 1833.11.25(天保4年10月14日)-1885.2.5(明治18年)). 字は桓甫、号は寧海.江戸の生まれ.
安政2年(1855):長崎海軍伝習所の第一期生.
安政3年(1856)5月:築地の講武所内におかれた軍艦教授所の教授手伝.
明治元年(1868):徳川家の駿河転封、沼津兵学校の一等教授方.
明治2年(1869):兵学校附置の沼津小学校に『筆算訓蒙』を書く.明治5年9月に「小学教則」が制定されたとき,小学教則の例として挙げられ,しばらくは全国的に算術教科書として用いられる.
明治3年(1870):沼津兵学校頭取
明治4年(1871):沼津兵学校の明治政府移管にともない、兵部小丞かつ兵学大教授.さらに太政官の権大外史になり,明治政府の地誌編纂事業をリード.
明治5年5月:ワイリー・李善蘭「代数学」の訳解
11月,太政官権大外史だった塚本の建議により,11月9日改暦の詔書.
明治6年:兵部省が陸海軍省に分かれ,陸軍小丞かつ陸軍兵学大教授に
明治10年,東京数学会社発足時の社員.
[文プ] トップ
土御門晴雄(Tsuchimikado Haruo(Haretake) , 文政10年6月5日(1827.6.28)-明治2年10月6日(1869.11.9).
土御門家陰陽道の事実上の最後の当主で,妹の土御門藤子は皇女和宮の乳母.安倍清明の子孫.
天保13年(1842)に陰陽頭となるが,既に編暦・頒暦の権限も幕府に奪われていたが,形式的には暦にかかわる者は土御門家の弟子になることになっていた.安政7年民部卿になり,明治元年に辞任.元治元年(1864)には従三位.
しかし,幕府が崩壊すると、新政府に働きかけて旧幕府の天文方を廃止に追い込み,編暦・頒暦の権限だけでなく,測量・天文などの管轄権を陰陽寮が掌握するにさせる.
当初新政府は、富国強兵や殖産興業に直接つながらない天文学や暦法に関する関心が極端に低かったせいでもある.
さらに太陽暦導入に反対し,天保暦を改暦して太陰太陽暦の継続を図ったものの、今度は逆に新政府の関心の低さが災いして、改暦は見送られた.晴雄はなおも改暦を要求したが、病に倒れ43歳の若さで病死した.
後継の嫡男・和丸(後の晴栄)はまだ幼く、更に新政府内部でも陸海軍の運営からも、非科学的な陰陽道が日本の近代科学導入の障害になることからもあって、明治3年(1870)、陰陽寮が解体される.
[文2] トップ
ツッカーマン(Herbert Samuel Zuckerman, 1912-1970).
カリフォルニア大学バークレイ校からR.D.ジェイムズの指導で「ウェアリングの問題における数g(n)に対する新しい結果(New results for the number g(n) in Waring's problem)」によりPh.D.取得(1936).
ワシントン大学教授.整数論.
I.ニーヴンとの共著『数論入門,第3版』(An Introduction to the Theory of Numbers, 1972:1991年版はH.モンゴメリとも共著),『無理数(Irrational Numbers)』(1956)などがある. [名序2, 4], [天4], [天VI.4] トップ
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